日本におけるトランス脂肪酸問題
(独)農業・食品産業技術総合研究機構
食品総合研究所 上席研究員 都築和香子 1.はじめに2006年から北米で加工食品にトランス脂肪酸量の表示が義務化されたが、同じ頃、日本でもトランス脂肪酸問題がなにかと注目されていた。当時、米国ではトランス脂肪酸の平均摂取量が、WHO/FAO機関が推奨した摂取量(1日の総摂取エネルギー量の1%未満)の2.6倍もあり、また、疫学研究から、トランス脂肪酸の過剰摂取が死因のトップである心疾患に悪影響を与えることが示唆されたこともあり、トランス脂肪酸の摂取規制の方向に舵を切った。表示義務化後、ニューヨーク市やカリフォルニア州等の地域では、追加政策としてトランス脂肪酸の摂取規制(ひとつの食品中のトランス脂肪酸量を低く制限すること)も始まった。これらのトランス脂肪酸の摂取対策のおかげで、近年の米国人のトランス脂肪酸摂取量は、減少傾向にあると言われている。韓国、香港は、当時トランス脂肪酸の平均摂取量は、国際機関の推奨値を超えていなかったが、北米を追いかけるように加工食品へのトランス脂肪酸量の表示を義務化した。一方、EU諸国、オセアニア諸国では、トランス脂肪酸の摂取規制についての議論は積み重ねられたにもかかわらず、表示義務化には至らなかった。日本でも、トランス脂肪酸摂取量については、1990年代から調べられているが、近年の調査まで、ほとんどがトランス脂肪酸の平均摂取量は、1日の総摂取エネルギー量の1%以下という結果で、偏った食事をしていなければ、トランス脂肪酸の摂取量は、諸外国と比較しても多くはないと言われている1)。近隣諸国で、トランス脂肪酸の摂取抑制策が始まると、消費者庁、内閣府食品安全委員会や農林水産省などの日本の関連政府機関は、国内のトランス脂肪酸問題について検討し、ファクトシートやホームページでその詳細な情報を開示した2-4)。消費者庁は、更に2011年2月に食品事業者に対して「トランス脂肪酸の情報開示に関する指針」5)を公表した。しかし、加工食品の栄養成分表示制度の栄養表示項に「トランス脂肪酸」は入れない方向で、現在は検討している。このため、日本のトランス脂肪酸問題は、沈静化しているように見える。本稿においては、当方で行ったトランス脂肪酸の研究を解説すると共に、そこから見えてきたトランス脂肪酸の分析上の問題点に言及し、日本のトランス脂肪酸問題について考察する。
2.食品に含まれるトランス脂肪酸日本の関連政府機関はいずれも、2006年のコーデックス委員会で決定した栄養表示等におけるトランス脂肪酸の定義「少なくとも1つ以上のメチレン基で隔てられた非共役型のトランス配位の炭素―炭素二重結合を持つ単価不飽和脂肪酸および多価不飽和脂肪酸の全ての幾何異性体」を、「トランス脂肪酸の定義」として採用している。この定義は、諸外国でもトランス脂肪酸の定義として広く使われているが、この定義によると、共役リノール酸等は、二重結合がトランス型であってもトランス脂肪酸には含まれないことになる。共役リノール酸の生理機能を重視しての判断と考えられるが、その科学的根拠は明確でない。また、この定義に従うと、食品に含まれる主として、炭素数14から22個の不飽和脂肪酸のトランス異性体が全て対象になる。炭素数と不飽和結合数の同じ不飽和脂肪酸でも不飽和結合の位置が異なる位置異性体や、多価不飽和脂肪酸の幾何異性体を考慮すると、ここで「トランス脂肪酸」と定義される脂肪酸の種類は著しく多くなる。 2)部分水素添加加工油脂 3)精製食用油脂 反芻動物の消化器官に共生するバクテリアは、不飽和脂肪酸のシス型の二重結合をトランス型に変換する酵素を有するため、ウシ、ヤギ、ヒツジなどの肉、乳製品には脂質の2―8%程度のトランス脂肪酸が含まれている。デンマークでは、2003年に2%以上のトランス脂肪酸を含む食品を禁止する含有量規制の法律を制定したが、この際、反芻動物由来のトランス脂肪酸は「天然のトランス脂肪酸」として規制対象から除外した。このような部分水素添加加工油脂に含まれる「人工のトランス脂肪酸」だけを対象とした含有量規制を追従したのは、スイスとオーストリアである。いずれも農産国という国柄ではあるが、規制しやすい「人工のトランス脂肪酸」の摂取を調整することでトランス脂肪酸摂取量を低減させる意図と思われる。反芻動物由来の乳製品と部分水素添加加工油脂の18:1(炭素数18個、不飽和結合数1個の脂肪酸)のトランス脂肪酸組成は異なる(図1)が、トランス脂肪酸の分子種を区別した疫学研究はほとんどない。また、反芻動物由来のトランス脂肪酸と植物油脂(部分水素添加加工油脂や食用油脂)のそれを区別して心疾患等との関連を調べた疫学研究は、複数あるが、まだ明確な結論を出せるまでには至っておらず、世界的には、反芻動物由来の「天然のトランス脂肪酸」も「人工のトランス脂肪酸」と区別せずトランス脂肪酸問題として考える国の方が主流である。
3.加熱・フライ調理によって食用油脂にトランス脂肪酸は生成するのか食用油脂は、加熱して使用することが多く、また加熱による品質低下を受けやすいことから、油脂の熱劣化については、1970年代頃から研究報告がある。また、1990年代には、加熱による不飽和脂肪酸のトランス異性化についても調べられていた。当時はまだ、トランス脂肪酸の分析技術レベルが高くはなかったが、250℃以上の高温で油脂を加熱することにより、不飽和脂肪酸の二重結合が異性化すると考えられていた。また、フライドポテト等の食材をフライ調理したときのトランス脂肪酸生成を調べた研究論文もあったが、食素材にトランス脂肪酸が含まれていることがあり、フライ調理そのものによるトランス脂肪酸生成については不明瞭であった。そこで、生ジャガイモをスライサーで短冊状に切り、市販の食用油脂(キャノーラ油)で揚げ、調理油、フライドポテトに含まれる油脂のトランス脂肪酸量を調べた。図2に示すように、標準的なフライ調理中に調理油脂に生成するトランス脂肪酸は、極僅かな量で、この調理法で作ったフライドポテトを100g食べたときに摂取するトランス脂肪酸量は、0.09〜0.1gと算出された6)。また、他の食用油脂についても、モデル系で加熱を行い、加熱時間に応じてトランス脂肪酸量を調べたが、油脂の種類によって差異はあったものの、いずれの加熱油脂でも、加熱によるトランス脂肪酸の増加は少なく、それを使って調理した場合でも1日のトランス脂肪酸の摂取量に大きな影響を与えないと推測された(図3)。この論文を投稿した際、審査員から「何故、生のジャガイモを揚げてフライドポテトを作ったのか?」とコメントをいただいた。欧米では食料品店の冷凍食品コーナーから「プレフライド・フローズンポテト(pre-fried frozen potatoes)」を購入して、家庭でフライ調理するのが一般的なようであった。「プレフライド・フローズンポテト」にはトランス脂肪酸が含まれている場合があり、それを揚げると調理中に生成するトランス脂肪酸と調理中にフライ素材から流出するトランス脂肪酸とを区別できなくなる。このため、生ジャガイモ(トランス脂肪酸含量ゼロ)をフライ素材とした。日本の家庭では、生ジャガイモからフライドポテトを作ることもあり、この実験系に違和感はなかったが、欧米人(?)の審査員には予想外の調理法だったらしい。
4.加熱による不飽和脂肪酸の二重結合の異性化機構についてこの生ジャガイモをフライ調理した実験結果から、次のふたつの疑問が残された。
5.トランス脂肪酸の測定上残る問題トランス脂肪酸測定法については、消費者庁の「トランス脂肪酸の情報開示に関する指針」の中では、AOACインターナショナルの公定法AOAC 996.0613)と米国油化学会の公定法AOCS Ce1h-0514)、または AOCS Ce1h-05と同等の性能を有する分析法で行うものとするとしている。同等の性能を有する分析法としては、AOCS Ce 1j-0715)と基準油脂分析試験法 暫17-200716)が相当する。これらの測定法は、トランス脂肪酸の表示を義務化している諸外国でも採用されている分析法であり、国際標準的なトランス脂肪酸の測定法である。しかし実際には、これらの公定法に準拠して、複数の分析者が食品中のトランス脂肪酸量を測定したときに数値がばらつく場合がある。トランス脂肪酸測定は、100mのキャピラリーカラムを設置したガスクロマトグラフィー法で測定する非常に繊細な測定法であり、日本のように、トランス脂肪酸含量の少ない食品が多い場合、それを小さい誤差で測定することは容易ではない。また、公定法では、網羅しきれない測定、解析上のあいまいさもある。以下に実際に食品のトランス脂肪酸を分析するときの問題点を挙げる。 1) 食品からの油脂分画の抽出法について前述の公定法のうち、食品からの油脂の抽出方法が記載されているのは、AOAC 996.06だけで、それも「乳製品やチーズ以外の食品」「乳製品」「チーズ」の3つの区分である。食品に含まれる脂質の種類の多さやそのマトリックスの複雑さが理由で、食品から油脂を抽出する方法は、対象食品によって抽出方法が異なる。AOACインターナショナル、日本食品標準成分表、基準油脂分析試験法を見ても、油脂の抽出方法は、エーテル法、クロロホルムーメタノール法、酸分解法、アルカリ分解法等が抽出食品によって詳細に分類して記載されている。しかし、トランス脂肪酸分析のための油脂の抽出法は、クロロホルムーメタノール法(Folch法)17)が頻用されている。トランス脂肪酸関連の論文を調べてもクロロホルムーメタノール法による油脂分画の抽出が圧倒的である。その理由としては、油脂の抽出中に加熱工程が入ると新たなトランス脂肪酸が生成する可能性があるからということである。しかしながら近年、クロロホルムの健康問題が取りざたされており、特にEU諸国では、実験従事者の健康を守るためにクロロホルムを使用しない油脂抽出法に置き換える動きがある。食品によっては、抽出方法に依存して油脂分画の抽出効率が多少異なることがわかっているので、油脂の抽出方法はトランス脂肪酸含量の算出にも影響を与える可能がある。トランス脂肪酸関連の多くの公定法では、油脂の抽出法までは言及していないが、油脂の抽出についても一定の取り決めがないとトランス脂肪酸測定値がばらつくひとつの原因になる。 2) トランス脂肪酸のピークの同定の問題トランス脂肪酸の分析には標準品の使用が欠かせない。しかしながら、コーデックス委員会や消費者庁の「指針」が採用した「トランス脂肪酸の定義」に見合うだけ十分な標準品は市販されておらず、入手できない。例えば、18:2のトランス異性体で市販されているのは、9t,12t-18:2、9c,12t-18:1、9t,12c-18:2の3種類である。しかし、実際の食用油脂や水素添加加工油脂には、9c,13t-18:2等の位置異性体もよく検出される。標準品がないトランス脂肪酸を「トランス脂肪酸」と見なすかどうかについては、公定法のクロマトグラムを参考にすることはできる。しかし、トランス脂肪酸のピークの同定については、トランス脂肪酸含量の算出に少なからず影響を与えるので、少なくとも国内の分析者の間ではコンセンサスが必要であると思う。
3) 定量限界値の設定について 少量のトランス脂肪酸の測定で問題になるのが、「定量限界値」である。トランス脂肪酸含量の少ない食品の個々のトランス異性体のピークは、定量限界値近辺の小さなものが出現することが多く、その個々のピークをトランス脂肪酸としてカウントするのか、しないのか、判断に迷う場合がある。実際は、これら小さなピークを合算してトランス脂肪酸含量を算出するので「定量限界値」については、解析上、分析者の間で統一した扱いが求められる。 4) カラムの不安定性トランス脂肪酸測定のために、当方では、内部精度管理と外部精度管理を併用して、測定の管理を行っている。内部精度管理では同一試料を定期的に測定するが、その測定中にキャピラリーカラムに不安定性が認められた19)。この6年間で使用したSP-2560のキャピラリーカラム5本で内部精度管理試料を測定したクロマトグラムを図7に示す。それぞれのカラムは新品のときのもので、カラムエージングの影響はほとんどない。AOCS Ce 1h-05法に準じて測定を行うと、最近のカラムでは、従来は分離していた18:3のトランス異性体のひとつの9t,12c,15c-18:3が20:1cと重なって測定できなくなっていた。この公定法では、カラム温度が180℃の恒温分析であるが、カラム温度を数℃下げたり、適切な昇温分析に切り替えたりすることで、問題のふたつのピークを分離することはできる(図8)。しかし、いずれも「公定法通りの測定」ではなくなってしまう。トランス脂肪酸分析で用いる極性キャピラリーカラムの不安定性の話は、しばしば耳にするが、「公定法通りの測定」では、実際のトランス脂肪酸分析に適応しきれないことの例のひとつである。
6.トランス脂肪酸問題の今後世界中でトランス脂肪酸摂取量が増えてきたのは、第二次世界大戦後に部分水素添加加工油脂の使用が拡大してからである。当時、飽和脂肪酸の健康問題がとり立たされていたため、飽和脂肪酸の代替え品として、トランス脂肪酸を含む水素添加加工油脂が重宝された。ところが1990年代になると、今度は、トランス脂肪酸の健康への影響が問題視されるようになり、欧米諸国で大規模な疫学調査(6〜20年間の歳月をかけ、計14.5万人を対象とした)や各国でのトランス脂肪酸の摂取量調査が始まった。それらの結果、2006年以降、米国やカナダはトランス脂肪酸の一連の規制対策に踏み切った。両国のトランス脂肪酸規制の政策は成果をあげたが、北米のトランス脂肪酸規制は、諸外国のトランス脂肪酸政策のスタンダードにはならなかった。欧州諸国やオセアニア諸国は、独自にトランス脂肪酸の自主規制を事業者に呼びかけ、自主的削減を推奨して、表示義務化をせずに、国内のトランス脂肪酸の摂取量の低減化に成功している。要するに、諸外国は、国際社会に通用する範囲で、国独自の方法でトランス脂肪酸問題の対策を講じているわけである。日本のトランス脂肪酸問題への政策も、国内外の状況を見ながら判断ということになるだろうが、問題点は少しでも解決しておかなければならない。
参考資料や文献1)食品安全委員会、食品健康影響評価報告書
著者略歴昭和58年 九州大学理学部生物学科卒業 サナテックメールマガジンへのご意見・ご感想を〈e-magazine@mac.or.jp〉までお寄せください。 |
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