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食の安全とメディア
 
東京大学大学院工学系研究科 特任准教授 神里達博
1.はじめに
 いつの頃からか、我が国のメディアには「食」に関する話題があふれるようになった。その中には、いわゆるグルメ番組や、良質で安い食材の調達方法を指南する記事なども含まれるだろう。だが、ニュースで目立つのは、やはり食に関わる「事件」や「事故」、とりわけ「安全性」や「信頼性」に関するものではないだろうか。
 巷ではそんな話題が増えているため、われわれの「食」はやはり最近危なくなっているのかな、と感じる人は多いように思う。いやもちろん、本メルマガの読者は「食の専門家」が多いだろうから、「そんなことはないよ」と思われたかもしれない。だが、少なくとも多くの「一般の人々」は、その中身まできちんと把握して判断している人はまれだろう。これはもちろん、「一般の人々」を軽んじて言っているのではない。現代を生きる人は皆、なんらかの「専門家」であり、逆に言えば、ある分野についてどんなに詳しい人であっても、ちょっと違うジャンルについて聞かれれば、皆「素人」にすぎないのだ。つまり専門家とは相対的な概念に過ぎない。
 情報化社会ゆえのデータの洪水のなかで、次から次へと吹き出してくる様々なスキャンダルの一つとして、多くの人々は、「食の事件群」を呆然と受け止めているのだろう。いや、いわゆる専門家にとっても状況は似たり寄ったりかもしれない。たとえば、「偽装事件」は過去に何度も起きているし、有名食品メーカーの不祥事なども繰り返されてきたわけだが、その時間的な順序を正確に答えられるだろうか。あなたが「専門家」であっても、きっと満点は取れないように思う。
 従って、「果たして、われわれの食は危うくなっているのか?」というような漠然とした問いに答えるのは案外難しい。何を基準に、誰が判断すべきものなのかも、実は自明ではないからだ。
 ともかく、これ以上印象でものを語っても仕方がないので、若干、データに基づいた議論をしてみたいと思う。まずは、「食に関する問題」はどのくらい発生しているのか調べてみよう。これも色々な手段が考えられるわけだが、さしあたりわれわれは、身近な新聞記事を手がかりにしてみよう。
2.「食の問題」の報道量推移
 図1は、『朝日新聞』に掲載されたそのような「食」に関する記事の割合を適当なキーワードで検索し、時系列で示したものである。
 1990年代半ばくらいまでは多少の変動があるものの、全記事に対する出現確率は0.5%以下であったが、96年の夏に一つ山ができているのが分かる。これは多発した「O-157食中毒事件」によるものだ。学校給食が原因で堺市を中心に発生した集団食中毒では、約8000名の患者を出し、3名が死亡した。このアウトブレイクを含め、この年は全国でO-157により8名の尊い命が奪われている。
 2000年の夏にも山があるが、これは当時の「雪印乳業」の製品による、黄色ブドウ球菌エンテロトキシン食中毒によるものだ。全国で1万数千名の有症者を出した、大規模食中毒事件であった。この夏は全ての記事の1%近くを「食の事件」が占めている。この頃までは、報道量の変化の原因は、比較的説明がつきやすいものとなっている。
 さて、2001年秋、日本に牛海綿状脳症(BSE)、いわゆる「狂牛病」が上陸した。周知の通り、BSEの侵入を許したことで、我が国の食品安全行政に対する信頼は著しく失墜した。政府は大いに批判され、その結果、食品安全委員会の新設にもつながった。また様々な食品関連産業が大きなダメージを受けるなど、社会全体に広範な影響があったことは間違いない。
 ところがグラフを見ると分かるとおり、「食」に関する報道量は、その翌年に大きな山ができている。基本的に、行政のBSE緊急対策は2001年中に出そろっており、また事件の影響で暴落した牛肉の価格も2002年春に底を打っている。BSE問題そのものは、少なくとも一旦は、比較的早期に収束しているのだ。それではなぜ翌年に著しく報道量が増大したのだろうか。
 実は、似たような現象は2008年にも起きている。2008年の山は二つあるが、前半は、あの中国製冷凍餃子による食中毒事件であった。だが、後半はまた別の事件「群」によるものだ。これらの報道を精査してみると、興味深いことがわかってくるのだが、この点については、のちほど改めて検討してみよう。
図1 新聞紙面における、食品問題に関する記事の割合
3.「メディア」と「プロ」
 新聞記事の割合から「食の問題」の概観を見てきたが、これらの事件の具体的な中身について、主なものを筆者の勝手な判断でピックアップし、まとめたのが表1である。ざっと見ただけで実にさまざまな事件が起こっていることが分かる。やはりこの国の食は大変なことになっているのではないか、という気もしてくるだろう。実際、さまざまなマーケッティング調査等でも、多くの人々がそのように感じていることが裏付けられている。
 だが、本メルマガの主たる読者である「食の専門家」の皆さんは、そろそろ違和感を覚えている頃かもしれない。「報道の量は『実際の問題の大きさ』を必ずしも反映していないのではないか?」と。
 確かにそうだ。どんな分野の「プロ」も一般紙やテレビ報道で、自分の「畑」に関係するニュースを聞けば、「あれはね、ああいう風に報じられてるけど、本当のところはね・・・」とシロウトに薀蓄のひとつも語りたくなるものだ。いや、そのくらいのことが言えなければ、「ホンモノのプロ」とは呼べないのかもしれない。とりわけ日本人は、そのような「プロの裏話」を好み、またついそのような語り口を信用してしまう傾向があるという。近年ではネットにその種の「マス・メディア批判」が載ることは、まさに日常的である−曰く、本当のことは、限られた少数の「プロ」しか知らない、メディアに載る情報などは、ニュースの表層にすぎない。従ってメディアの狂騒など、気にする必要はない・・・などなど。
 だが、それでは、そのような「プロ」の認識こそが「真実」であって、マス・メディアが報じるような社会全体で共有されている(であろう)信念は、偏ったイメージであり、極論すればある種の幻想に過ぎない、などと言い切ってよいのだろうか。
 実は、この問題を、社会科学的に真正面から分析するのは、案外骨が折れる。そこで、とりあえずわれわれは当初の問い、「果たして、われわれの食は危うくなっているのか」という問いに戻って、少し異なる角度から検討してみよう。
表1 「平成」のおもな食品問題・事件(神里作成)
4.食中毒統計の示すもの
 歴史的に見るならば、人類にとっての「食の問題」とは、そのほとんどの時代において、「量」のリスクとしての「飢餓」が最大の懸案であった。それに加えて生物としてのわれわれを脅かしてきたのが、「質」のリスクとしての、「食中毒」である。厚生労働省は、長期的な食中毒統計を公表している。行政の発表する統計データは、メディアの報道以外では、われわれの社会の実状を知る代表的な手段であるので、これをもとに考えてみよう。
 図2は戦後の食中毒による死亡者数の推移である。1950年代には100名単位で死者が出ていたが、急速にその数は減少し、1980年代以降はおおむね20名未満、多くの年は数名で推移している。この理由としては、技術的・制度的な充実によって社会の衛生状態が良くなったこと、栄養状態の向上によって基礎体力が高まったこと、また医療の充実によって救われる命が増えたことなど、いくつかの要因が挙げられるだろう。
 その意味では、単純に「食の質が良くなったから」とは、必ずしもいえない。実際、図3に明らかなように、食中毒の患者数は依然として多く、年間平均3万数千件程度で推移していることが分かる。未だに食中毒は侮れないリスクなのである。
 実は、米国のレポートには、年間数千人の単位で食中毒による死亡者が出ていると推定するものもある(Mead et.al, 1999)。米国の人口は日本の2倍強だから、想定される数をはるかに上回る死者が出ていることになるわけだ。日米で衛生環境等にそこまでの差があるとは考えにくいため、日本の食中毒統計には漏れがあり、死亡者数が過小評価されているのではないかという声もある(三瀬,1999)。
 このように色々な議論がありうるが、少なくとも時系列的な比較としては、我が国の食中毒の犠牲者が減少していったことは、間違いないだろう。最も避けるべきリスクが「人の死」であるとするならば、明らかに「食の安全性」は、戦後一貫して著しく高まってきた、といえるのだ。
図2 食中毒による死亡者数の推移
図3 食中毒の患者数の推移
5.メディアの機能
 以上の議論から見えてくるのは、報道によって作られるわれわれのイメージと、統計的なデータとのギャップである。前者からは、我が国の食の安全性が近年著しく悪化しているかのような印象を受けるかもしれないが、すでに述べたように、少なくとも食中毒の死亡者数は減っている。
 また、もう一つ指摘すべきこととして、近年の「食の問題」として報じられる内容には、産地や原材料、賞味期限などの「偽装」に関するものが多いという点である。これは、表1からも明らかであろう。これらの事件は、安全性と全く無関係であるとまでは言えないが、多くの場合は、直ちに健康被害が出るほど危ない食品ではない。むしろ、企業活動などに関する信頼性の問題としての「食の問題」と見るべきであり、しばしばこれらが間接的に「食の安全性」への社会的な不安を惹起してきた、と考えられる。
 このような状況においては、先ほども少し指摘したように、いわゆる食の「プロ」、「専門家」のサイドからしばしば、「報道は、社会に誤ったイメージを与えている」という批判が聞こえてくる。いわゆる「風評被害」などの問題も、この種の文脈で捉えうるものもある(このような苦言は最近、「食」に限らず、様々な分野の「プロ」から聞こえてくる)。
 仮にメディアを単なる情報の「伝達手段」と見なすならば、あながち間違いでもないかもしれない。しかしここでは、メディアの、とりわけジャーナリズムの機能は、本来、より幅広いものであることを指摘しておくべきであろう(メディアとジャーナリズムの違いについては、林 2002を参照のこと)。
 民主的な社会においてメディアは、理念的には、以下の三つの機能を期待されている。まずは、公平で正しい情報を伝えること。また、公共的な懸念や問題を議論する、開かれた言論空間を作ること。そして最後に、政府や企業の行動を監視する機能である。上記の「苦言を呈するプロ」は、メディアの機能を矮小化して捉えているようにも思われるのだ(神里 2008)。
 また、このことを逆に見れば、理想的なメディアであればあるほど、その中身は「現実」の単純なコピーではあり得ない、ということを意味している。明示的にであれ暗黙的にであれ、メディアが伝えるイメージは、「現実」に対して、なんらかの加工を施したものであるし、またそうあるべきなのである。
表1 「平成」のおもな食品問題・事件(神里作成)
6.アジェンダ・セッティング
 さて、ここで改めて、2.で触れた、2002年および2008年に見られた食品問題に関する報道ラッシュについて考えてみよう。2001年におきたBSEパニックの後、大きなピークが来たことはすでに述べた。実は、この中身は、BSEとは直接関係の無い事件ばかりであったのである。詳細は、神里 2004を参照していただきたいが、2002年の春から夏にかけての報道は、1)輸入野菜の残留農薬問題、2)無認可香料の不正使用事件、3)登録切れの農薬の広範な使用の発覚、4)さまざまな産地偽装 といった記事で構成されていた。それらが、連日、さまざまな具体例を伴って伝えられた。その結果、社会的には一種の「食品パニック」的な状況を呈したのである。2008年後半のピークも、実は中国製冷凍餃子事件とは直接は関係の無いニュースがほとんどであった。それらは、ウナギ、タケノコ、アサリなど、続々発覚する産地偽装や、工業用の事故米を食用に偽装したいわゆる「三笠フーズ事件」などの報道によるものだ。
 これらの事実をわれわれはどう考えるべきだろうか。実はこれは、5.で触れたメディアの機能の二番目、「言論空間の構築機能」と密接な関連がある。
 当然のことだが、メディアは、世界のあらゆることを報道しているわけではない。簡単に言えば、「われわれの社会にとって意味があること」を抽出し、価値付けてひとつのストーリーに組み立てて報じていくのである。このような、意味づけの機能は、一つの規範として作用することが知られている。たとえば、「今、この社会にとって重要なのは『食の安全』に関する話題である」とメディアが規定すると、関係するニュース項目は重み付けされ、また直接関係ないニュースはメディアに載りにくくなる。これを、「メディアのアジェンダ・セッティング(議題設定)機能」と呼ぶ。
 アジェンダがいかなるメカニズムで設定されるかは議論があるが、「大きなリスク事象」は、そのトリガーのひとつになりうることが知られている。すなわち、BSEや中国製冷凍餃子事件など、一旦、社会全体に大きなインパクトがある事件が起こると、そのリスクに関係のある分野−この場合は「食」−に注目が集まり、次々と同じジャンルの報道が連鎖的になされるのである (神里 2004)。「食」以外の問題の事例としては、たとえば2005年末から2006年にかけて起きたいわゆる「耐震偽装事件」によって、「建築物の安全性」が大きな社会的アジェンダとなり、それまでは見過ごされてきた関連するリスクにも注目が集まり、不正が明るみに出るケースも見られたのである(神里 2008)。
7.「メディア」と「専門家」の課題
 メディアのアジェンダ・セッティングは、公共的な課題を、広く社会的に議論していくうえで、重要な機能である。しかし同時に、いわゆる「報道過熱」が生じることで、特定分野に過度に注目を集めさせてしまい、バランスを欠いた社会的対応をもたらしたり、逆に他の重要な課題が社会的に見過ごされてしまう原因を作ってしまう、といった危険性があることを否定できない。
 これらの問題を解消しながら、社会全体としてメディアを有効活用するにはどうすべきか。難しい課題であり、また字数の都合もあるので、ここでは、二点だけ指摘しておきたい。
 まず、メディア自身が、多様性を持つことである。
 一つの報道機関が、ある種キャンペーン的に特定の問題を追及していくという姿勢は、ジャーナリズムの手法として健全なものである。だが、そのキャンペーンに、他の報道機関が次々と追随するとすれば、それは望ましくないことだ。また、報道の世界には「特落ち」という言葉がある。これは、他の新聞社が報道していることを、自社だけが報じられなかった場合を指す。担当の記者にとっては非常に不名誉なことであるらしいが、消費者の立場からすれば、正直、たいした問題ではない。むしろ、他のメディアが気づかなかった課題をいち早く見出し、スクープしてくれるかどうかの方が、社会にとっては重要だろう。
 こういう「業界的慣習」にとらわれることなく、一人一人の記者が独自の視点で調査報道を重ねていくことが、結局は、バランスの取れた良質な報道への近道であると考えられる。
 他方、さまざまな分野の専門家−本稿で取り上げているのは食品安全の専門家であるが−にはどのようなことを期待すべきだろうか。
 まず、適切なアジェンダの設定には、「専門知」の素早い動員が不可欠である。だが、メディアと専門家の適切なコラボレーションは、案外簡単ではない。それにはいくつか理由がある。
 専門家は一般に、自らの専門性に基づいた「厳密性」を重視する。また、自らの「領分」に忠実であることが普通であり、専門分野の越境には禁欲的である。たとえば、何かの事件が起こった際、ジャーナリズムは専門家に意見を求めることがある。しかし、自らの専門性に忠実であろうとするあまり、「自分はふさわしくない」と取材を拒否する「きまじめな専門家」もいるだろう。また逆に、専門性において適切ではない人物がテレビなどでコメントをすると「あいつはちゃんと分かっていないのに」「売名行為にすぎないよ」などと、学者の仲間内で非難される場合もあるだろう。
 確かに、専門的能力において著しく乏しい人物が「専門家」としてメディアに登場することは危ういことである。しかし「“真の専門家“がメディアに登場してくれないから、仕方なく“ど真ん中ではないが近そうな専門家”にコメントをお願いした」という場合も多いだろう(本人にはそうは言わないだろうが)。そうであったとしても、視聴者にとっては有益であることも多いはずだ。
 また、そもそも当該の問題とその専門家の専門性が合致しているかどうかは、誰が判断すべきことなのだろうか。「それは、その人物を登場させたメディアの側の責任だ」という声もあるかもしれない。だが、そもそもメディアは、「その問題のことがよく分からない」から専門家に助言を求めているのだ。従って、そこまでの責任を負わすのは普通に考えて酷だろう。となれば、専門家が進んで社会的責任を果たし、自ら声をあげることが期待されるのだが(もちろんそういうケースも増えている)、上記の通り、とりわけアカデミズムの世界では、そのようなことはあまり推奨されていない(尤も、近年はこのような規範も変化しつつあるようだ)。
 この種の問題は、現代社会における専門家のあり方をめぐるさまざまな議論とつながっているため、簡単に正解を示すことのできる話ではない。だが少なくとも、専門家も、メディアとのコミュニケーションにおいては、上記のような厳密さや専門性の限定については若干、自己規制を緩め、その分、社会的意義や、分かりやすさといった、別の基準を一定程度受け入れることも必要な時代に入っているといえるだろう。そうすることで、より適切なアジェンダが設定され、意義のある「公論」が展開する可能性が高まっていくに違いない。
8.「情報」としての「食」
 以上、「果たして、われわれの食は危うくなっているのか?」という問いから、メディアや専門家のあり方にまで話が発散してしまったが、最後に、このような「報道過熱」的な現象が、今後どうなっていくのか、そして、その時われわれの「食」はどうなっているのかを、少しだけ考えておきたい。
 まず、一点指摘すべきは、これまで述べてきたような、社会全体を巻き込むアジェンダ・セッティングは、実はマス・メディアの存在を前提とした現象である、ということだ。だが、90年代以降のネットワークの発達により、マス・メディアを支えてきた「広告収入」というビジネスモデルが、急速に崩壊してきていることは周知のとおりだ。米国ではすでに、多くの新聞社が消滅しており、かの有名なニューヨーク・タイムズですら、倒産の危機が何度もささやかれている。日本でも、今後、テレビ・新聞の大規模な統廃合は不可避であろう。
 一方で若者を中心に、そのような旧来の巨大メディアに対する人々の関心そのものが低下しているのを感じる。SNSやミニコミ的なネットワークなど、より個人的な嗜好に基づくパーソナルなメディアへと軸足を移してきているのだ。そのような時代においては、社会的なアジェンダ、いわば「大文字の公共性」と言うべきものは、構築されないか、仮にされたとしても、実は代表性において疑わしい、といったことが起こりうるだろう。
 そうなれば、大規模な風評被害などは起こりにくくなるかもしれないが、同時に、社会的に真に注目すべき共通の課題にも、人々はあまり関心を持たなくなるだろう。また、一旦生じた噂やデマは、多数の細かなネットワークの奥深くに沈殿し、容易に修正することができなくなるかもしれない。
 そのような時代においては、「食」に関しても有力なポータルサイトやトレーサビリティ・システムを構築し、RFIDなども含めた情報の標準化を進めることで「対抗」するよりないだろう。それらは本来、安全行政の仕事であったはずだが、おそらく現実には流通企業が中心となってシステムが形成されるように思われる。巨大流通企業は、生産現場と消費者の間を独占的に媒介し、物質としての「食品」のみならず、「食に関するあらゆる情報」の流通をも担うことを目指すはずだ。これはすなわち、流通企業こそが「メディア」となる時代の到来を意味する。そして、それはすでに始まっている(当然そのような「集中」に対してはさまざまな弊害が出てくる可能性もあるだろうが、解決への道筋もないわけではない 神里 2003などを参照のこと)。
 ともかく、時代は大きく変わりつつあるが、われわれの時代における「食」の最大の変化は、食べ物の機能が、単に「エネルギーを得て身体の材料とする」という、生物としての本来の目的を越えて、「情報としての食」という側面がクローズアップされてきたことにあるといえる。メディアの問題が重要になってきたのも、風評被害が無視できなくなってきたのも、また、ブランド食材がブームとなり、機能性食品が売れているのも、「情報としての食を消費する」という時代が来たことに起因する。われわれは、いつの間にか「記号を食べる」ようになったのだ。そのことが人類にとってどういう意味を持つかについては、また別の機会に検討することとしよう。
(了)
文献
林香里『マスメディアの周縁、ジャーナリズムの核心』新曜社,2002.
神里達博「トレーサビリティという考え方−標準化を巡って」『食品機械装置』, 40(7), 51-57,2003.
神里達博「近年の食品問題の構造−”2002年食品パニック"の分析」『社会技術研究論文集』,Vol.2., 331-342,2004.
神里達博『食品リスク−BSEとモダニティ』弘文堂,2005.
神里達博「リスクの社会的フレーミング――耐震偽装事件を例に」『科学技術のポリティクス』東京大学出版会,2008.
Mead P.S., et al. Food-related illness and death in the United States., Emerg. Infect. Dis. ;5:607-25.,1999.
三瀬勝利『食中毒はなぜ頻発するのか』日本図書刊行会,1997.
略歴
東京大学大学院工学系研究科 特任准教授
神里達博(かみさと たつひろ)
1967年生まれ。東京大学工学部卒。科学技術庁、三菱化学生命科学研究所、(独)JST・社会技術研究開発センターなどを経て、08年より現職。東京大学大学院総合文化研究科博士課程単位取得(2002)。専門は科学史・科学論。主著に『食品リスク−BSEとモダニティ』(弘文堂,2005)。分担執筆で『科学技術社会論の技法』(東京大学出版会,2005)、『科学技術のポリティクス』(東京大学出版会,2008)、『科学技術コミュニケーション入門』(培風館,2009)など。
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