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もち小麦誕生とその魅力
津市立三重短期大学 名誉教授 藤田 修三 麦にまつわる諺(ことわざ)や教えは、世界中に散見されます。たとえば‘一粒の麦、(中略)もし死なば多くの実を結ぶべし’。これは聖書からのもので、ひと粒の麦は土に蒔かれて(死んで)初めて芽をだし、多くの実を結ぶ。自己犠牲がより大きな成果や他者への貢献をもたらす、という教えのようです。普段気づきにくい諺です。‘四十過ぎての男の意見、彼岸過ぎての麦の声’。彼岸を過ぎてから麦に肥料を与えても育たないように、40歳を過ぎた男性にいくら意見をしても聞き入れない。胸に手をあててみる、です。‘麦の穂が出たら浅蜊(あさり)は食うな’。初夏、小麦の穂が出る頃は丁度アサリの産卵期。食べると食中毒を起こしやすいという諺のようで、‘牡蠣は英語でrのつく月(9月→4月)に食べる’によく似ています。麦に関する言い伝えや諺が多いということは、それだけ麦が私たちの食生活に根付いた作物であるからでしょう。 その麦ですが、初夏ともなりますと車窓から麦秋の風景がみられるところが増えています。小麦についてみてみますと、裏付けるように国内生産量は2010年の571(千トン)から2022年の994(千トン)へと、実際に増加しています(農林水産省 国内産麦の生産と流通の動向)。これは戦後進んだ日本の食生活の欧米化に即するため、輸入だけには頼らない自給率の向上を目指す国の姿勢だと思われます。トランプ関税とは一線を画す問題です。同時に、輸入小麦に負けない優れた品種開発に携わる研究者の成果ともいえます。‘もち小麦’はその品種改良過程で生まれた、世界初のモチ性胚乳澱粉をもつ小麦です。以下では、もち小麦誕生までの軌跡と食品としての特徴についてご紹介します。 もち小麦は、お米に例えると普通米に対するもち米に相当します。成分は澱粉がモチ性であること以外、普通小麦(パン小麦)と同じです。しかしモチ性澱粉を小麦に付与することで、新たな食生活や健康な長寿社会に寄与する食材の可能性を秘めています。 もち小麦との運命的な出会いは、1995年三重県立図書館で官報を手にした時のことでした。もち小麦の品種登録が眼に入り青天の霹靂でした。なぜかと申しますと、普通小麦や稗(ひえ)のようなゲノムが六倍体(後ほどご説明します)の作物には、モチ性品種はみられないというのが定説だったからです。そんななかでのもち小麦の誕生で、これまでの澱粉研究の知識や経験を活かして、もち小麦についてもっと調べたいという思いが募(つの)りました。どこで新たな夢が開けるのかはわからないものです。 先ず、もち小麦誕生までの経緯についてです。誕生のうらには国内で良質な麺用小麦を開発する計画にありました。うどんやラーメンに使用する麺用小麦の定番といえば輸入小麦ASW(Australia Standard White)です。どういう小麦でしょうか。AI検索によるASWの回答は、①白さが特徴の小麦で日本ではうどんは白いという認識と親しみがある、②グルテン形成たんぱく質の弾性が大きく、噛(か)んだ時のかみ応えやのど越しがよい、③粘度がある程度高く、餅の好きな日本人の食性に適している、④茹であがった際に、柔らかな食感や弾力が出る等でした。AIの回答は一般的なものが多く、少し詳細を補足しますと、ASWは準強力小麦で、優れたグルテン形成たんぱく質を有し、かつ低アミロースタイプの小麦であることです。低アミロースというのは、澱粉がお餅の食感に近づくということです。農業研究機構では、麺類好きの日本でASWに匹敵する麺用の品種開発が重要ととらえて育種研究をはじめました。育種によるグルテン形成たんぱく質の質的研究とともに、澱粉の低アミロース化研究が進められ、その澱粉を低アミロース化する過程の究極が、つまりアミロースほぼゼロがもち小麦であるというのがおおよその流れです。 ではもち小麦誕生の研究は、具体的にどのように進められたのかですが、それには先ず、もち小麦を創出するための遺伝学上の事実(メンデルの遺伝法則、小麦の倍数性進化)を踏まえてモチ性澱粉のもち小麦を生み出す方法が検討され、次にそれを解決するための研究手段(実験方法)の開発が行われました。 普通澱粉ともち澱粉の関係はメンデルの遺伝の法則に従います。よく知られているエンドウ豆の皺(しわ)と皺なしの遺伝は、普通のエンドウ豆と‘シワ(皺)’をもつエンドウ豆をかけ合わせると、第1代では顕性(優性)の法則で普通エンドウ豆だけが生まれ、第2代になると分離の法則により普通:シワ=3:1の割合で‘シワ’のエンドウ豆が生まれます。澱粉の場合もエンドウ豆と同じで、メンデルの法則に従い、モチ性澱粉は潜性(劣性)の‘シワ’に相当します。 お米を例にとると、メンデルの法則に則って図1のような過程でもち米が作られます。しかし普通小麦(パン小麦)ではそうはいきません。理由は、普通小麦ではメンデルの法則が三重(みえ ではなく‘さんじゅう’です)に重なっているからです。どういうことでしょうか。
![]() 図1.もち米とメンデルの法則 表1に、イネ科作物のモチ性澱粉の存在の有無についてまとめました。表中のイネ(お米)は染色体数が2n=24本で二倍体(2×とも表示)ですが、小麦には染色体数の異なる3系統があります。染色体数が2n=14本の一粒系小麦(二倍体)、2n=28本の二粒系小麦(四倍体)、2n=42本の普通小麦(パン小麦)(六倍体)です。ラーメンに使用されるのは普通小麦です。このように小麦に一粒系、二粒系、普通系の3種類があるのは自然界に‘倍数性進化’という自然界の理があるからです。倍数性とは、生物あるいはその細胞が、生存に必要な最小限の染色体の1組(ゲノム)を何セット持っているかを示す考え方です。通常、多くの真核生物(ヒトを含む)は、両親からそれぞれ1組ずつ染色体を受け継ぎ、合計2組の染色体を持つ二倍体で、お米がそうです。倍数性進化は、特に植物において、よく見られる現象で生物の進化や多様性に大きな影響を与えています。倍数化は新しい種が形成される重要なメカニズムの一つですが、特に小麦のような異質倍数性では、異なる種の遺伝子を組み合わせることで、新たな形質を持つ種が生まれます。 以上を整理しますと、①もち小麦は普通小麦である、②普通小麦は六倍体(3種類のゲノム)で、遺伝上、潜性のモチ性澱粉を生み出すためには、三重に織り重なったメンデルの法則(六倍体)を解きほぐすことが必要となります。 ではどのように解きほぐすのかです。普通小麦は六倍体なのでゲノムが3つあり、それぞれをゲノムA、ゲノムB、ゲノムDとよんでいます(表2)。異質六倍体の第2世代でモチ性澱粉が生まれるためには、表2のうち⑧の条件、つまり3つのゲノム全ての第2世代でモチ性澱粉をもつ品種(表2での×)を選抜し交配する必要があります(図1、表2参照)。 もち性小麦澱粉の選抜方法は以下のようです。
この計画を実行してアミロース合成酵素の消えたもち小麦が生まれたわけですが、保存されている2000品種について、電気泳動分析を2000回近く行われ(実際は、1品種あたりx軸方向とY軸方向の二方向の電気泳動を行うので4000回近く)、研究に膨大な時間と労力が費やされました。もし目的とする品種が見つからなかったらと思うと研究の大変さに頭が下がります。新しいことを見つけるとは、そういうことかもしれません。 表1.イネ科作物におけるモチ性の存在
〇:1990年以前より存在していた品種 ●:1990年以降に育種で作出した品種
表2.普通小麦からもち小麦が生まれるゲノムの組合せ
〇:アミロース合成酵素が存在する ×:アミロース合成酵素が存在しない
このようにして1995年もち小麦は生まれました。ではもち小麦の食品としての価値はどこにあるのかです。食品としてのもち小麦の特徴は以下のとおりです。
これらは私共の研究で得た知見ですが、ここでは、①と②について紹介します。先ず①の性質についてですが、澱粉は水を加えて加熱すると糊化(のりか)し、粘度がでてきますが、時間をおくと徐々に元の澱粉構造に戻り(老化)、粘りが消えて、冷やご飯状態になります。澱粉の糊化および粘度は各種澱粉で異なるため、澱粉研究では品質評価によく利用します。澱粉の粘度を測定するRVA(Rapid Viscosity Analyzer)で調べたのが図2です。図2-bは曲線が示す意味の説明図で、それを参考にしながら図2-aをみて下さい。もち小麦は普通澱粉に比べて糊化開始点が早く(糊化開始温度が低い)、最高粘度の温度も低く、そのまま変化が少ないまま分析が終了します。図2-bのセットバック(最低粘度と最終粘度との粘度の変化)は、デンプン老化の速度と関係があるとされており、その差が小さいほど老化が生じにくい、つまり硬くなるのに時間がかかります。もち小麦のグラフ曲線の変化があまり観られないことは硬くなりにくい、つまりもち小麦のソフト感が持続されることを示しています。この性質は普通小麦にはみられない特徴で、④や⑤の調理や食品加工分野での応用が期待できます。 ![]() 図2-a.もち小麦のRVA粘度曲線
![]() 図2-b.RVA粘度計の基本情報
次に②のもち小麦の食べやすさについてです。 健常な大学生(21~22歳)36名と60歳以上14名、計50名にもち小麦のお餅ともち米のお餅を食べ比べてもらう食味調査実験を行ったところ、もち小麦のお餅の方が食べやすいという回答が得られました。とりわけ‘飲み込みやすい’との回答に統計的な違い(有意差)がみられました。そこで、なぜ飲み込みやすいのかを追求するため‘嚥下内視鏡’でもち小麦のお餅、もち米のお餅の飲み込み状態を観察しました。 ‘食べる’行為には図のように5段階があります(図3)。これを‘摂食嚥下の5期‘と称しており、順に認知期(食べる意識)、咀嚼期(モグモグ)、口腔期(食片を舌の真ん中に集合)、咽頭期(飲み込み)、食道期(ゴックン)で、私たちは無意識にこの食べる一連の行為を行っています。嚥下内視鏡は、咽頭期から食道期、いわゆる飲み込みを観察できる装置です。健常な成人に、もち小麦のお餅と普通の米餅の2種類を食べてもらったところ、結果は図3のように、お餅(もち米)の場合は粘着性があって噛み切りにくく、食塊のまま飲み込まれる傾向がみられました。しかし、もち小麦のお餅は米のお餅と異なり、うどんを食べる時のように無意識に噛み切って分割し、また麺を捏(こ)ねる過程で生じるたんぱく質が粘着性を低くし、ツルッと咽頭期から食道期を通過します。言い換えますともち小麦のお餅は、喉(のど)に詰まりにくく、‘空気の通り道を確保’しながら食道から胃へ送られるものと考えられます。これが食味調査実験で、もち小麦のお餅が普通のお餅に比べて‘飲み込みやすい’と回答のあった理由と考えました。
![]() 図3.もち小麦餅の摂食・嚥下のイメージ
本誌上の説明だけでは実感が湧かないと思いますが、百聞は一見にしかず、実際に食べて頂くとその特徴を理解していただけます。もち小麦餅は、お餅のモチモチ感と麺のツルツル感とを兼ね備えた新食感の食材で、高齢社会で応用が広がることが期待されます。小規模な企画ですが、もち小麦普及のため2010年から幾度か新宿高島屋で開催される‘大学は美味しいフェア’に出展し、お餅、食パンなどを販売しましたところ、毎年完売でした。東京ビッグサイトの展示会でも好評でした。 もち小麦は新規食材として期待されますが実用化には大体20年の歳月を要します。例えば食物繊維の場合、今や便通や腸内細菌による免疫力アップ効果があり健康に必要なことはあたりまえのようですが、それは英国バーキット博士の大腸憩室の研究発表から4半世紀を経てのことです。もち小麦は1995年に品種登録されましたので、最近ようやく関東では中華麺を中心に、近畿はパンを中心に普及が始まっています。今年、人気TV番組‘マツコの知らない世界’でもち小麦麺が紹介され、一躍需要が高まっています。需要が伸びると、栽培面積の拡大が求められます。現在、国内では岩手県、滋賀県、熊本県を中心に栽培面積が拡がっています。三重県桑名市でも栽培されています。一方で、海外でも栽培が始まり、既に国内に輸入されています。これからもち小麦の市場は拡がるものと思われます。 最後になりますがもうひと言。スーパーマーケットや穀物取扱店で‘もち麦’が販売されていますが、もち麦は大麦のモチ性澱粉の品種で、もち小麦ではないことを申し添え、筆を置きます。 略歴
藤田 修三 津市立三重短期大学 名誉教授
浪花生まれで神戸大農、大阪市大院を修了後、三重短期大学に19年間勤務しました。澱粉の構造および消化性に関する研究をすすめるなか、もち小麦と出会い新たな研究の夢が広がりました。その後、もち小麦の故郷、東北農業研究センター(盛岡市)に近い青森県立保健大学に採用が決まり、共同研究を続けました。もち小麦は物性が他の作物と異なることが特徴で、保健大学らしく物性と食べる健康との関わりを中心に研究を続けてきました。 サナテックメールマガジンへのご意見・ご感想を〈e-magazine@mac.or.jp〉までお寄せください。 |
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