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![]() 人の味わいと感性評価(仮)の提唱
〜人は化学物質を味わっているのか?〜 ![]() 東北大学大学院 文学研究科
心理学研究室 東北大学 電気通信研究所 多感覚情報統合認知システム研究分野 教授 坂井 信之 1.はじめに「これは良くできた。分析値も官能評価の結果も最高だ。これは売れるぞ」と思って市場に出した商品が意外と売れず、「こんなもの売れるかな」と思ったものが意外と売れるという経験をされた方も多いかもしれない。本稿では、このような予想と現実のギャップを「人の味わい」という観点から説明する。さらに、この「人の味わい」を理解し、予測するために必要な新しい評価方法についても提唱したい。 2.味覚とは我々は食物を口に含んだときから飲み込むまでに経験する感覚を「味覚」と呼ぶことがある。しかしながら、実はそれは味覚ではないことがわかっている。例えばCOVID-19の副症状あるいは後遺症として「味が分からなくなる」ことが報告されている1)。多くの場合、自覚的に「味がわからない」という症状が見られるのは、主に嗅覚系に障害が生じた結果だと考えられている2)。確かに、嫌いなものを鼻を摘んで食べるという経験からわかるように、嗅覚がなくなると味を感じにくくなる。 基礎医学や心理学で味覚という用語を使う場合は、舌や口腔内(軟口蓋や咽頭部など)に存在する味蕾という感覚器官が、水溶性の味物質によって刺激された時に生じる感覚のことを指す。この定義に基づくと、現時点では甘味、うま味、塩味、酸味、苦味の五基本味のみを味覚と呼ぶことになる。この基本味で先ほど食べた食事の味を表現していただきたい。おそらく、「うま味と塩味がある程度強く、少し酸味と苦味があった」などになるかもしれない。このような記述では何の情報も伝達できないことがわかっていただけるであろう。味覚センサーや成分分析結果などの結果のみでは、この情報に加えてそれぞれの味のバランスに関する情報しか得られず、あなたが何を食べたかまでは全く分からないのである。 3.嗅覚と味先に述べたように、あなたが食べたものを表現するのは味覚ではなく、嗅覚なのである。五種類しかなかった味覚に比べて、嗅覚は受容体だけでも300ほどのバリエーションがあり、かつそれらの受容体が一つの匂いを伝えるのではなく、複数の受容体が複数の化学物質と結びつき、かつそれらが数十〜数百集まって、食物の匂いを形成している。つまり、食物の匂いのバリエーションは数限りなく存在するというわけである。 「よしわかった!では嗅覚センサーを合わせると、食物の味がわかるのだな」と判断するにはまだ早い。嗅覚受容体は確かに化学物質を受容しているが、それらの情報の統合には学習が深く関わっている。つまり、ある匂いの構成要素をそれぞれ単独に検知しているのでなく、それらを経験によって統合し、記憶することによって、何かの匂いと判断しているのである。「経験なくして匂いなし」なのだ。そのため、匂いを構成する分子が非常に似ていたとしても、我々の匂いの認知はそれぞれ異なるし、もっとややこしいことに、その匂いを鼻孔から嗅ぐか(前鼻腔性嗅覚やオルソネーザル嗅覚)、口の裏側から登ってくるものを嗅ぐか(後鼻腔性嗅覚やレトロネーザル嗅覚)によっても、違って感じられる3)。つまり、化学物質の構成要素及び構成のバランスだけで匂いが決まるわけではない。このような匂いの違いが、我々が食べる食物の味のバリエーションを形成しているのである。 嗅覚は砂糖などの呈味物質を含んでいない単なる水にレモンなどの香料を加えるだけで、酸味や甘味を生じさせる。苦いコーヒーにバニラの香りを添加すると、苦味が弱く感じられる現象にも嗅覚が深く関わっている。嗅覚は、日常の食経験を通じて味覚と融合した感覚を形成し、共感覚のような現象を生じさせる4)。そのため、嗅覚単独で味の感覚を生じさせることも可能である。この現象を応用した商品の一つがニア・ウォーター系飲料である。 4.口腔内化学感覚と味唐辛子の辛味や胡椒の刺激感は、味蕾で感知されないので味覚ではない。唐辛子の辛味は、唐辛子の構成要素であるカプサイシンという化学物質が口腔内粘膜に存在するTRP V1受容体に吸着した時に生じる触覚の一種類である。他に、ニンニクや大根の辛さはTRP A1受容体、ミントはTRP M8受容体、胡椒はTRP V3受容体でそれぞれ受容されることが知られている5)。最近TRP受容体の研究が進んでおり、味を構成するさらなる口腔内化学感覚の理解が進むことが期待される。 また、茶葉や渋柿を食べた時に生じる感覚は、苦味と混同しやすいが、それとは別の渋味である。渋味は口腔内粘膜のタンパク質を変性させると考えられており、味蕾によって感受されない口腔内化学感覚である。辛味や渋味も食物を構成する化学物質によって引き起こされるため、口腔内化学感覚(oral chemesthesis)と呼ばれている。口腔内化学感覚の情報は口腔内粘膜状の自由神経終末によって迷走神経あるいは三叉神経によって脳へ伝達される。また、これらの化学感覚は味覚と相互作用し、複雑な味を形成することに関わっている。 5.聴覚と味食物を咀嚼すると食物の構造は崩壊する。その構造の変化は食感として触覚的に知覚されるだけでなく、音波や骨伝導音として聴覚としても知覚される。そして、これらの音はその食感に関連づけられる。例えばポテトチップスを食べている時に、咀嚼音をマイクで拾い、その高周波成分をカットして耳にフィードバックすると、湿ったように感じられおいしくない6)。反対に柔らかい介護食を食べている時に、咀嚼音を聞かせると、より硬く、おいしく感じられることも報告されている7)。さらに、炭酸の弾ける音を聞くだけで、炭酸水の口腔内で弾ける感覚も強く感じられるようになることも知られている。 これらのことから聴覚は食物の食感に大きな影響を与えることがわかる。その仕組みはどのようなものだろうか。現在の我々の仮説を述べてみたい。例えば、ガリガリというオノマトペは硬い塊を噛んでいる時の低い咀嚼音を音象徴として表現したものである。反対にネチャネチャというオノマトペは柔らかく、粘るような食物を噛んでいる時の咀嚼音を音象徴として表現している。柿の種のような歯応えを特徴とする食物は、それを摂取しているときに「ガリガリ」と表現できる時においしく感じられる一方、「ネチャネチャ」していると表現された時にはおいしくないと感じられる8)。このように、ヒトは食感をオノマトペで表現することにより、複雑な食感の感覚を簡便に表現し、記憶しやすくまとめていると考えられる。食感のような複雑な感覚をそのまま記憶するには莫大な容量が必要になるが、それを言葉という少ない情報量に落とし込むことにより、記憶容量を削減できる。その代わりに多彩な食感を表現するために、多くのオノマトペを作る必要が出てくる。実際日本語には100を優に超える食感オノマトペ語があり9)、その多くを誰もがわかるような形で使用している。このことにより、日本食では食材の持つ多彩な食感を活かした様々な調理法や料理が開発されるようになったと考えられる。 これまであまり注目されてこなかった聴覚と味の関係であるが、最近ではいくつかの論文が報告されるようになってきた。先にも述べたように、新しい食感、より良い食感を開発するには必要な知識であるため、今後更なる研究の発展が期待される。 6.視覚と味視覚も味わいに深く関わっている。例えば同じマグロの寿司を食べる場合でも、視覚刺激として白色や黄色の寿司の写真を見ながら食べると、生臭さが弱く感じられ、その結果マグロが苦手な人もおいしく食べられる10)。またチョコレートを食べる時に、ミルクチョコレートのパッケージを見ながら食べると甘味が強く、苦味が弱く感じられるが、ブラックチョコレートのパッケージ見ながら食べると甘味が弱く、苦味が強く感じられる11)。これらの研究の場合、口に入れる食物は市販のものであり、何らの加工も加えていない。つまり、見た目(視覚刺激)と食物(味覚・嗅覚刺激)は完全に独立している。そのため、これらの現象は食物の化学特性では説明できない。 ではどのような仕組みで、視覚情報が味に影響を与えるのだろうか?マグロの寿司は元々生臭さを持っているが、白色や黄色などマグロを連想させない寿司の写真を見ることによって、その生臭さに注意を向けないため、マグロが苦手な人でもおいしく感じるようになる。また、チョコレートの味も、ブラックチョコレートのパッケージを見ることで、苦味に注意が向き、元々のチョコレートの持つ苦味がより強く感じられるようになる。このように、視覚の影響は限定的で、元々その食物の持つ感覚特性に注意を向けたり、注意を逸らしたりすることによって、感じられる味に影響を与える程度でしかない。しかしながら、実際の食物の味わいにおいては、その食物の持つ感覚特性を最大限に引き出したり、反対にネガティブな感覚特性を視覚によりマスキングするような応用も期待できる。 7.味とは何か、そしておいしさとは?ここまでの説明を経て、まず味についてまとめてみよう。食物を構成するのは化学物質であり、それらの化学物質により食物の化学的・物理的特性が決まるのは間違いない。我々人は食物の化学的・物理的特性を味覚や嗅覚、食感などを通じて受容する。しかしながら、我々の食物の認知はこれらの感覚に基づいてではなく、それらの相互作用や視覚や聴覚の影響を受けながら形成される。我々が食物を摂取している時に生じる“味覚”は、これらの食物認知のことであり、味覚や嗅覚などの感覚とは異なっている。このような用語理解の行き違いが、製造者と消費者の間の乖離の元である。このような乖離を避けるには、食物の分析を味覚センサーや嗅覚センサーにのみ頼るのではなく、人の食物認知を測定する官能評価的方法によることが重要である。 さらに、実際の生活場面における消費者の食物選択は“味覚”のみに依存するのではない。例えばブランドによって感じられる味やおいしさは大きく変わる12)。それだけでなく、消費者自身の選択によっても味やおいしさは変化する。また、最近ではSNSなどの評価やオンラインで見かける口コミなどの情報の味やおいしさに与える影響も大きい。これらのことを踏まえると、市場にリリースする食物の品質を決め、保証するためには官能評価の手法が有効であると言えるが、それだけでは売り上げを期待することは、いや売り上げを予測することさえ難しいと考えられる。 8.感性評価(仮)の提唱そこで筆者が提唱したい概念を導入してみたい。それをここでは「感性評価」と仮に名付けておこう。「感性評価」は官能評価に心理学・脳科学の観点を取り入れた手法で、食物そのものの特性を五感により表現する(これが官能評価)のではなく、人(特に消費者)がその食物をどのように認知・評価しているかということを表現するものである。「感性評価」では、実験室などの日常とかけ離れた環境で食物を評価させたり(例えばCLTなど)、商品パッケージなどの情報を一切伏せた条件で評価させたりすることを避けるべきである。むしろ、商品情報や試食環境などを心理学や脳科学の知見に基づいて十分に設定・管理し、それらの要因も結果の解釈に利用できるようにすべきと考える。このような考え方は最近国際的にも注目されている考えであり、官能評価の国際的な学会であるPangborn Sensory Science Symposiumでは数回にわたってこれに関するシンポジウムを開催しているほどである。 なお、よく誤解されるが、「感性評価」とは単に官能評価と脳機能計測を合わせるというものではない。脳機能計測の結果は、主観評価の裏付けや解釈に利用できるが、脳機能計測の結果のみで何か新しい発見に導くものではないし、主観評価で得られないデータを脳機能計測の結果が示すこともない。もしそのような結果が得られたら、おそらく脳機能計測のデータがノイズを拾っているだけである。 我々は現在食品や日用品のカテゴリーで、この「感性評価」を進めている。例えば従来はノイズとして見過ごされてきたサンプル試食の順番や回数に大きな情報が込められていたこと13,14)や、「苦味が嫌い」という若者は上の世代に比べて(予想に反して)苦味の感受性が低いこと15)、商品の香りの印象がそのパッケージの色使いによって変わりその商品の使用感を大きく変化させること16)、同じ食品でも評価時の器によって感じられるおいしさや健康イメージが大きく変化すること17)などを明らかにしている。今後もこの「感性評価」の手法を改良しながら、消費者の味やおいしさの理解を進めていきたい。 参考文献
略歴
坂井 信之 東北大学 大学院文学研究科 心理学研究室 東北大学 電気通信研究所 多感覚情報統合認知システム研究分野 教授
大阪大学人間科学部卒業、同大学院人間科学研究科博士後期課程修了(行動生理学)、日本学術振興会特別研 究員(広島修道大学:実験心理学)、科学技術振興事業団科学技術特別研究員(産業技術総合研究所:脳神経情報研 究部門)、神戸松蔭女子学院大学人間科学部生活学科准教授などを経て東北大学大学院文学研究科心理学研究室教授。 東北大学電気通信研究所教授を兼任。東北大学ヨッタインフォマティクスセンター副センター長。 サナテックメールマガジンへのご意見・ご感想を〈e-magazine@mac.or.jp〉までお寄せください。 |
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