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(独)農業・食品産業技術総合研究機構
食品総合研究所 所長 林 清 1.はじめに
原子力発電所の事故で放出された放射性物質は食品にも影響を及ぼしている。厚生労働省が食品中の放射性物質を測定した結果を「食品中の放射性物質の検査結果について」として公表しており、8月19日現在、報告数は163報、検査件数は13,191件に達し、暫定規制値を超えた食品は556件におよんでいる。一方、時間の経過とともに、規制値を超えた品目は、初期のホウレンソウ、山菜、原乳から、乾燥により見かけ上、放射性物質が濃縮される荒茶へ、さらに、汚染稲わらが飼料として使用されたことが原因の牛肉へと変化がみられる。また、現在の暫定規制値の再検討や「牛肉中の放射性セシウムスクリーニング法」が定められるなど、新たな対策も講じられている。
2.放射線防護の国際的な枠組み
放射線による被曝の程度と影響を評価・報告するために国連によって設置された委員会として「原子放射線の影響に関する国連科学委員会」(UNSCEARアンスケア)がある。本委員会は純粋に科学的所見から調査報告書をまとめることを意図して作られた組織であり、その独立性と科学的客観性からUNSCEARの報告書に対する評価は高い。これまでに20件の報告書を発表しており、世界各国はこれを参考に放射線障害防止に関する法令の整備を行っている。
また、原子力の平和利用を促進し、軍事転用されないための保障措置を実施する国際機関として「国際原子力機関」(IAEA)があり、加盟国は139ヵ国におよぶ。IAEAでは安全基準シリーズを発行している。このシリーズは一般安全、原子力安全、放射線安全、輸送安全及、廃棄物安全に分かれており、16の「基準」、115件の「指針」から成り立っている。IAEAの安全基準は加盟各国に遵守を義務づけるものではないが、国際規格としてみなされており加盟各国の国内法に反映されている。 さらに、「国際放射線防護委員会」(ICRP)は、専門家の立場から放射線防護に関する勧告を行う非営利、非政府の国際学術組織である。UNSCEARの報告書を基礎資料として用いており、ICRPの勧告は国際的に権威あるものとされ、IAEAの安全基準ならびに、世界各国の放射線障害防止に関する法令の基礎にされている。 わが国では、こうした国際的な枠組みのもとに(図1)、原子力災害対策特別措置法、放射線障害防止法等の国内法が整備されている。ICRPの2007年勧告(事故後の2011.3.21に同じ内容を声明として発表)では、1年間の被曝限度となる放射線量を平常時は1mSv未満、緊急時には20〜100mSv、緊急事故後の復旧時は1〜20mSvと定めている。この勧告に基づき、福島第一原子力発電所の事故に際し、ICRPは日本政府に対して被曝放射線量の許容値を通常の20〜100倍に引き上げることを提案した。ただし、事故後も住民が住み続ける場合は1〜20mSvを限度とし、長期的には1mSv未満を目指すべきだとしている(図2)。これを受け内閣府の原子力安全委員会は、累積被曝量が20mSvを超える地域において防護措置をとるという方針を政府に提言した。 3.放射性物質の暫定規制値
内閣総理大臣による原子力緊急事態宣言が3月11日に発出されたのをうけ、3月17日付けで厚生労働省から都道府県知事宛に、「原子力安全委員会により示された指標値を暫定規制値とし、これを上回る食品については、食品衛生法第6条第2号に当たるものとして食用に供されることがないよう販売その他について十分処置されたい。」と通知している。暫定規制値は、放射性ヨウ素、放射性セシウム、ウラン、プルトニウム等の核種毎に分けて設定されている(表1)。諸外国の規制値と比較すると、この暫定規制値は同レベルあるいは安全側にたった数値であるといえよう(表2)。
放射性ヨウ素は半減期が8日と短く80日経過すれば1/1000に減少することから、事故初期には農作物中に検出され問題となったが、事故後2〜3ヶ月が経過すれば問題とはならない。ストロンチウム、ウラン、プルトニウム等も放出量が極めて少なく問題となっていない。現在、高い関心がよせられているのは放射性セシウムである。 有機物や粘土鉱物のため土壌粒子は負に帯電しており、1価の陽イオンとしてふるまうセシウムは、表面を中和するかたちで土壌に沈着する。さらに、ある種の粘土鉱物のもつ負電荷にセシウムはきわめて強く「固定」され、他の陽イオンによって簡単に置き換えることができなくなり、降雨等では土壌から流出しない。土壌に沈着したセシウムの一部が経根吸収によって農作物へ移行するため農作物を汚染するが、セシウム137の半減期は30年と長く、長期間にわたり影響をおよぼすおそれがある。 以下の点を考慮して、食品における放射性セシウムの暫定規制値が設定されている。(1)セシウムの環境放出には89Sr及び90Sr(137Csと90Srの放射能比を0.1と仮定)が伴うことから、これら放射性セシウム及びストロンチウムからの寄与の合計の線量をもとに算定するが、指標値としては放射能分析の迅速性の観点から134Csと137Csの合計放射能値を用いる。(2)全食品を飲料水、牛乳・乳製品、野菜類、穀類、肉・卵・魚・その他の5つのカテゴリーに分けて指標を算定する。(3)実効線量5mCv/年とし、それを5つの食品カテゴリーに均等に割り当てる。(4)我が国におけるこれら食品の摂取量(厚生省の国民栄養調査による食品群ごとの摂取量統計データ)及び放射性セシウム及びストロンチウムの寄与を考慮して、各食品カテゴリー毎に摂取制限指標を算出する。(5)国産・輸入品も含め、広範な地域からの食品を摂取している。食品が一律に放射能汚染されるわけではなく、汚染されていない食品をたべることで、食品カテゴリー内の汚染が薄められることから、希釈率0.5を採用する。(6)成人、幼児(5歳)、乳児(3ヶ月)について算出する。(7)各世代について求めた濃度指標の最小値(表3で赤字で表示)をもとに、当該食品群の暫定規制値を決定する。 4.暫定規制値の再検討3月17日に適用した暫定規制値は、原子力安全委員会が決定した「原子力施設等の防災対策について(防災指針)」に基づくものであり、緊急を要するために食品安全委員会の食品健康影響評価を受けずに定めたものである。そのため、3月20日にリスク管理機関である厚生労働省はリスク評価機関である食品安全委員会に食品由来の放射性物質のリスク評価を諮問した。これをうけ、3月29日に「放射性物質に関する緊急とりまとめ」として食品安全委員会が厚生労働省に答申し(図3)、それを受け厚生労働省は3月17日付けの暫定規制値を当面維持することとした。
一方、3月29日の緊急とりまとめでは放射性物質の発がん性のリスクや胎児への影響等に関する詳細な検討等が今後の課題として残された、食品安全委員会では放射性物質の専門家等を含めた「放射性物質に関する食品健康影響評価のワーキンググループ」を設け審議した(図4)。放射線影響に関する多くの文献(3300文献、総ページ数約3万ページ)にあたったほか、9回のワーキンググループ会合を重ね、7月26日に食品健康影響評価書案(A4版226頁)をとりまとめた。その概要は以下のとおりである。(1)放射線による健康への影響が見いだされるのは、現在の科学的知見では、通常の一般生活において受ける放射線量を除いた生涯における追加の累積線量(食品だけでなく外部からの被曝も含め)として、おおよそ100mSv以上と判断される。(2)累積線量としておおよそ100mSvをどのように年間に振り分けるかは、リスク管理機関の判断となる。(3)100mSv未満の線量における放射線の健康への影響については、放射線以外の様々な影響と明確に区別できない可能性や、根拠となる疫学データの対象集団の規模が小さいことや曝露量の不正確さなどのために追加的な被ばくによる発がん等の健康影響を証明できないという限界があるため、現在の科学では影響があるともないとも言えず、100mSvは閾値とは言えない。(閾値とは「しきい値」ともいい、毒性評価において、ある物質が一定量までは毒性を示さないが、その量を超えると毒性を示すときの値をさす。)(4)「食品に関して年間何mSvまでは安全」といった明確な線を引いたものになっていない。しかし、食品安全委員会としては、科学的・中立的に食品健康影響評価を行う独立機関として、現在の科学においてわかっていることとわかっていないことについて、可能な限りの知見の基に下した見解である。 この食品健康影響評価書案に関するパブリックコメントを8月27日まで募集している。寄せられた意見・情報について必要な検討を行った後、食品安全委員会で評価結果が決定され、厚生労働大臣に通知され、厚生労働省が中心となり適切なリスク管理措置がとられる予定である。 なお、放射線による影響は確定的影響と確率的影響とに大別できるが(図5)、食品からの低線量被曝による健康影響については、確率的影響でありガンが問題視されている。わが国において、ヒトが自然界から被曝している放射線量は1.5mCv/年(内訳は(1)食品:0.41 mCv、(2)大気中等のラドン等:0.40 mCv、(3)大地放射線:0.38 mCv、(4)宇宙線:0.29 mCv)であり、世界の平均被曝量は2.4 mCv/年である。また、被曝が原因でないガンの発生率は3割に達している。自然界からの被曝と被曝によらないガンの高発生率のため、追加の被曝によりガンの発生リスクがどの程度上昇するかを科学的に検証することは非常に困難である。こうした困難な状況下、食品安全委員会では食品健康影響評価書をとりまとめつつある。 5.チェルノブイリ事故から学ぶ 1986年のチェルノブイリ原子力発電所事故後、IAEA等の国際機関がその影響を調査し報告しているほか、多くの研究論文が発表されている。食品総合研究所では、主要な英文論文155件の和文抄訳をホームページで公開しており(図6)、その一部を紹介する。
チェルノブイリ事故に伴い、土壌のセシウム汚染を緩和する各種の対策が講じられた。セシウムは土壌の極表層(数センチ以内)に蓄積し、その後の降雨等でほとんど移動・流出せずに留まることが明らかにされている。耕すことにより汚染された表層と汚染されていない深層の土壌が混合されるため、見かけ上はセシウム濃度が2.5〜4倍程度希釈されるが、これは初回のみ有効である。一方、植物の根がはらない45cm以下の深部に表層汚染土壌をすき込む方法により、8〜16倍の希釈効果がある。また、セシウムはカリウムと類似した挙動を示すためカリウム不足の土壌では植物によるセシウム吸収が促進される(表4)。また、植物を栽培し土壌中の放射性セシウムを吸収させることによる土壌浄化は、マスバランスからほとんど期待できない。1m2の耕作土壌は150kgであり、1m2から得られる植物体は1kg程度と少なく、移行率の高い植物を栽培しても植物体が土壌から吸収するセシウム量は微量である。 農産物の加工でもセシウム濃度が増減する(表5、6)。小麦では外皮にセシウムが多く含まれるため、小麦粉では0.3〜0.9倍程度に希釈され、ふすまでは3倍程度濃縮される。洗浄、煮沸によりセシウムが溶出し0.5〜0.9倍程度減少する。水を使わずに電子レンジで茹でる容器が流行しているが、この方法で茹でてもセシウムは溶出しないことから、減少効果は期待できない。肉の煮沸では加工係数は0.1〜0.5であるが、すき焼きのように肉を煮沸した汁を摂取する調理法では、セシウム低減効果は無い。砂糖への加工、油への加工では精製工程が含まれることもあり、加工係数は0.08〜0.004と大きく低減する。牛乳からバターでは0.2〜0.3、チーズでは0.5〜0.6と減少する。一方、乾燥では水分が失われるため見かけ上高くなり、粉乳では加工係数は8と増加する。わが国のあら茶、干し椎茸等、乾燥工程を含む加工食品では水分が失われた分だけ見かけのセシウム濃度が高くなることから注意を要する。 6.積極的な応援消費で風評被害の防止農林水産省では、被災地産の食品を積極的に消費することによって、産地の活力再生を通じた被災地の復興を応援するため、共通のキャッチフレーズ「食べて応援しよう!」の利用を呼びかけている(図7)。東日本大震災の被災地及びその周辺地域で生産・製造されている農林水産物、加工食品を販売するフェアや、社内食堂・外食産業などでもこれを優先的に利用しようという取組みが全国に広がっている。
日経新聞(平成23年6月22日)によれば、東北産の応援消費をしたことがある割合は女性で63%、男性で50%に達し、年齢間の大きな相違は認められなかった。また、応援消費の際に「価格が安い」を選択した割合は9%と低く、積極的な産地応援をしていることが明らかとなった。さらに、大手百貨店の夏のギフトカタログに被災地産の商品が掲載されると、注文が急増している。 安全性に関する正しい知識の普及・啓発、速やかな情報提供、キャンペーン展開など、風評被害の防止が図られている。 7.おわりに厚生労働省が公表している食品中の放射性物質の測定結果をみても、汚染稲わらが飼料として使用されたことが原因の牛肉を除けば、最近、モニタリングされた農産物は規制値以下あるいは不検出である。安全基準を設定し、基準を超える場合は出荷制限などの措置をとっているので、店頭にならぶ食品・農産物は安全という仕組みが着実に定着している。
自発的なもの、知覚できる場合には不安感は縮小し、身近で起きたり、強要されたもの、人為的原因の場合には不安感が増大する(図8)。生産者、食品流通・小売業者、消費者などの食にかかわる全ての関係者が、一定レベルの正しい科学的知識とバランスのとれた情報を共有することにより、放射性物質の食品影響、健康影響に関して適切な判断をし、「食べて応援しよう!」等の被災地を応援する取組に積極的に参加することにより、これまで以上に地域色が豊かで多種多少な農産物が供給・消費され、豊かな日本型食生活を支え、国民の健康の礎となることを期待したい。 参考文献1.Fesenko SV, Alexakhin RM, Balonov MI, Bogdevich IM, Howard BJ, Kashparov VA, Sanzharova NI, Panov AV, Voigt G, Zhuchenka YM. Journal of Radiological Protection. 26: 351-359(2006). 2.Nesterenko AV, Nesterenko VB. Annals of the New York Academy of Sciences. 1181: 311-317(2009). 3.Alexakhin RM. Science of the Total Environment. 137: 9-20(1993). 4.Alexakhin RM, Fesenko SV. Sanzharova NI. Radiation Protection Dosimetry. 64: 37-42(1996). 5.Bogdevitch I, Sanzharova NI, Prister B, Tarasiuk S. In: Kolejka J (Ed.), Role of GIS in lifting the cloud off Chernobyl. Kluwer Academic Publishers: pp 147-158(2002). 6.Fesenko SV, Alexakhin RM, Balonov MI, Bogdevitch IM, Howard BJ, Kashparov VA, Sanzharova NI, Panov AV, Voigt G, Zhuchenka YM. Science of the Total Environment. 383:1-24 (2007). 著者略歴1974年 名古屋大学農学部農芸化学科卒業 1984年 英国食品研究所に2年間留学 1990年 農林水産省技術会議事務局研究調査官 1992年 食品総合研究所資源素材化研究室長 2004年 農林水産省研究開発企画官 2005年 農林水産省首席研究開発企画官 2006年 (独)農研機構食品総合研究所企画管理部長 2010年 (独)農研機構 理事、食品総合研究所長(現職) 主な受賞:科学技術庁注目発明賞(2000)、文部科学大臣賞研究功績者賞(2002) 主な著書:「総合調理用語辞典」、「Biocatalysis and Agricultural Biotechnology」、「食品技術総合辞典」、「図解−バイオ活用のすべて」、他多数 サナテックメールマガジンへのご意見・ご感想を〈e-magazine@mac.or.jp〉までお寄せください。 |
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