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食の安全はどのように守られているか
(財)残留農薬研究所毒性部 青山 博昭
はじめに
  このところ、食品に混入する微量の有害物質問題や家畜の口蹄疫感染などに関するニュースが新聞やテレビを賑わし、市民の間に食の安全に関する懸念が広がっている。食の安全をより高い次元で確保するには、都合の悪い事実を隠蔽して市民を疑心暗鬼に陥らせるより、事実をありのままに伝えて不安を取り除くことが大事であることは言うまでもない。しかし、情報開示が進むに連れ、返って市民の不安が増しているように見受けられるのは何故であろう。本稿では、どのようにリスクを捉え、その内容を如何に市民に伝えたら無用なパニックを引き起こすことなく食の安全が守れるかについて、毒性学の立場から考えてみたい。
事実を伝える言葉と受け手の印象
  リスクコミュニケーションを担当する専門家の間では、市民とのコミュニケーションの失敗例として、「ジヒドロモノオキサイド(DHMO)の恐怖」という笑い話がよく引き合いに出される。ご存知の方も多いと思うが、あらすじを以下に簡単に要約する。1997年のこと、米国の中学生がDHMOなる化学物質の危険性を書き連ね(もちろん英語で)、周囲の大人たちに読ませて「このような危険な物質を規制しなくて良いのか?」と尋ねたところ、質問を受けた50人のうちの43人が規制に同意したという。曰く、
Dihydrogen Monoxide(DHMO)は水酸の一種であり、無色、無味、無臭である。
DHMOは比較的古くから工業に使用されてきたが、産業の巨大化や軍事技術の発展に歩調をあわせて使用量が飛躍的に増加した。
DHMOは、ナトリウム、カリウム、カルシウムなどの金属を侵し、水素ガスを発生させる。
DHMOは毎年無数の人を死に至らしめ、その多くはこの物質を液体のまま吸引したことによる呼吸不全が死因である。
固体となったDHMOに接触すると、身体組織に激しい損傷を引き起こすことが実験的に確かめられている。
DHMOは、不妊男性の精液、死亡した胎児の羊水、がん細胞から多量に検出される。
DHMOは犯罪者の血液や尿に多量に含まれ、暴力的犯罪のほぼ100%がこの物質を摂取した後24時間以内に起こっている、など。
  なるほど、確かにこのように書き連ねられると、英語を母国語とする米国人でさえ、DHMOなる化学物質は極めて危険なものであり、こんな物質が野放しにされていて良いのかとの義憤さえ沸いたようである。まして英語が苦手な我々日本人がDHMOの恐怖におののいたとしても、当然のことかもしれない。しかし、落ち着いてDHMOのスペルをみれば、水素が2つに酸素が1つというその組成(Dihydrogen Monoxide)から、この化学物質の正体は「H2O」すなわち「水」であることに気づく。つまり、恐怖の化学物質DHMOの正体は手洗いの蛇口を捻ればいつでも出てくる「水」のことであり、私達の体の70%が水からできていることも、夏になれば水の事故による犠牲者が毎年何人も出ることも、すべて周知の事実である。このジョークの言わんとするところは、「常識的には安全な物質であっても、手に触れたり食事とともに摂取したりすると場合によっては事故も起こりうるが、さりとて心配で夜も眠れなくなるほどになるほどのことはない」という物質でさえ、そのリスクを説明する方法を誤ると市民がヒステリックに反応することもあるとの警告ないしは皮肉であろう。
リスクとは
  私達は、日頃から無意識のうちにリスクという言葉を用いている。例えば、「金融商品にも一定のリスクがある」とか、「ハイリスク・ハイリターン」とか、用例は枚挙に暇がない。しかし、この言葉の意味はどこまで正しく理解されているだろうか。
  毒性学の分野では、「リスク=有害性×曝露用量」と考えるのが一般的である。すなわち、ある物質のリスクとはその物質との接触(摂取)によって危険なことが起こる確率であり、リスクが高かったり低かったりすることはあっても、その物質との接触を絶たない限りゼロリスク(絶対の安全)はあり得ないと考える。例えば、ある食品のリスクを考えた場合、その食品にはアレルギーを引き起こす作用があるかもしれないし、場合によっては腐敗していたり細菌や毒物に汚染されていたりする可能性もある。これらのそれぞれ(アレルゲン性、細菌の毒素、汚染物質の毒性)が有害性という概念であり、それらは非常に強い場合もあるが、無視できるほどに弱い場合もある。また、これらの有害物質の曝露量は、当然のことながら、そのような有害物質を含む食品の摂取量に比例して大きくなる。このため、ある食品のリスク(その食品を食べることによって病的な症状が現れる確率)に関しては、たとえ強い毒性を持つ有害成分を含む食品であっても摂取量が僅かであればさしたる障害は生じず、逆にその食品に含まれる有害物質そのものの毒性は弱くてもその食品を大量に摂取すれば明らかな毒性徴候が現れるとの原則が成り立つ。
農薬の安全性評価
  それでは、意図的に細菌や害虫を殺したり、雑草を駆除したりする目的で使用される農薬のリスクはどれほどであろうか。恐らく、一般的な市民の印象は「農薬と聞くと何となく不安である」といったところであり、少なからず「それなりのリスクはある」と感じておられることであろう。もちろん、それはそれで必ずしも誤った認識ではない。しかし、農薬取締法に基づいて新規の農薬を登録する際には、医薬品以上に厳しい毒性試験を実施してそれらのデータを提出しなければならないことや、その安全性に関して内閣府の食品安全委員会を始めとする様々な国家機関による厳格な審査を受けていることは、意外に知られていない。参考のため、食用作物に適応される農薬に課せられる主な毒性試験の種類を、表1に示す。
表1. 農薬のヒトに対する安全性を担保するための主な毒性試験
 農薬使用時の安全性評価
(農業従事者の安全確保)
 残留農薬の安全性評価
(消費者の安全確保)
急性毒性
(経口毒性、経皮毒性、吸入毒性、眼刺激性、皮膚感作性など)
 急性毒性(経口毒性、経皮毒性)
亜急性毒性(経口毒性、吸入毒性など) 亜急性毒性(経口毒性) 
特殊毒性(催奇形性、変異原性) 長期毒性(慢性毒性、発がん性)
その他(生体の機能に及ぼす影響) 特殊毒性(繁殖毒性、催奇形性、変異原性)
 その他(生体内運命、生体の機能に及ぼす影響)
  農薬の毒性試験は、使用時安全を確保するための試験と、消費者安全を確保するための試験に大別される。例えば、農作業時には比較的高濃度の農薬に直接接触したり、噴霧した農薬を吸入したりするリスクがあるため、農業従事者の安全を確保するための試験では様々な曝露経路による高濃度で短期の曝露に対する毒性が細かく調べられる。また、農作業に従事する方々の中には妊婦も含まれる可能性があるため、胎児に対する影響を調べる催奇形性試験も実施される。一方、都市部に住むごく普通の市民が直接農作業に携わることはまれなため、一般に消費者が高濃度の農薬に曝露される事象は考え難い。しかし、これらの人々も毎日の食事を介して比較的低濃度の農薬に長期間晒される可能性があるので、消費者の安全を担保するためには、主として経口曝露経路による慢性毒性や発がん性あるいは繁殖毒性の有無を中心に評価する必要が生ずる。
これらの毒性試験に用いられる実験動物の種類を、表2に示す。

表2. 農薬の毒性試験に用いられる実験動物の種類

実験動物の種類  毒性試験
ラットおよびマウス 急性毒性試験、亜急性毒性試験、慢性毒性試験、発がん性試験、
繁殖毒性試験、催奇形性試験、神経毒性試験、遺伝毒性試験、免疫毒性試験など
モルモット 皮膚感作性試験など
ウサギ 眼刺激性試験、催奇形性試験など
イヌ 亜急性毒性試験、慢性毒性試験など
ニワトリ 遅発性神経毒性試験など
  表から明らかなように、毒性試験ではラットやマウスが汎用される。しかし、動物の種によっては、特異的な反応が起こったり逆に極めて反応が鈍かったりする可能性があるので、重要な試験については複数の動物を用いて同一の試験を実施する。
無毒性量と1日当りの許容摂取量
  上述の如く、ある1つの農薬の安全性を確認するために様々な実験動物を用いて多くの毒性試験が実施され、それらすべての試験で、原則として何らかの毒性が現れる高用量から何も毒性の現れない低用量まで複数の投与用量が設定される。このため、農薬の安全性は、医薬品よりもさらに詳しく調べられることになる。このような対応が取られるのは、特定の患者さんが医師の処方に従って意図的に摂取する医薬品とは違い、農薬は老若男女を問わず非意図的に(知らず知らずのうちに)摂取してしまう恐れがあるため、より厳しく安全性を評価する必要があるとの思想に基づくものである。
  ある農薬の1日当りの許容摂取量(Acceptable Daily Intake: ADI)は、このようにして実施されたすべての毒性試験の中から無毒性量(No Observed Adverse Effect Level: NOAEL)が最も低かった試験と動物種の組み合わせ(最も感受性の高い動物が最も鋭敏に反応した試験)を抽出し、該当する試験で得られた無毒性量をさらに不確実係数で除して求められる。通常は、ヒトと実験動物では対象とする農薬に対する感受性が異なる可能性があることを考慮して、最も感受性が高い(したがって、無毒性量が最も低かった)動物よりもヒトは10倍感受性が高いと仮定し、同じヒトでも個人差があって普通人よりも10倍ほど感受性が高いヒトがいるかもしれないと想定して、不確実係数を100とする。さらに、無毒性量が得られていない試験があったり、何らかの理由で実施されていない試験があったりした場合は、追加の不確実係数(通常は2-10の間の値)が設定される。したがって、このようにして求められるADIは、少なくともあらゆる実験動物の中で最も感受性が高かった動物に対する無毒性量の1/100以下となり、この程度の用量であればヒトが一生の間毎日摂取しても害はないと考えられている。このような基準が正しいか否かを理論的に証明することは難しいが、少なくとも、これまでにこのような手法で求められた基準(あらゆる農薬について、残留量がADI以下であった農作物や食品しか流通させない)を守って使用してきた農薬がヒトに障害を引き起こした事例はない。
  それでも何だか心配だという方のために、厚生労働省による農薬事故の集計結果を紹介しておく(http://www.nihs.go.jp/mhlw/chemical/doku/dokuindex.html)。この集計によれば、平成14年度から18年度の5年間における農薬事故の発生件数は単年度当り189〜271件であったものの、そのうちの82.5〜94.5%は自殺等の目的で自ら意図的に多量の農薬を摂取した事例、残りは誤飲・誤食もしくは農薬散布に伴う事故事例であった。したがって、我が国で用いられているいかなる農薬も、ヒトに危害を加えることを目的として何らかの食品に意図的に混入するような犯罪を企てない限り、農作物やそれらを加工した食品に残留するような濃度で一般消費者に中毒症状を惹起することはないと考えられる。
おわりに
  本稿では、我々が日常的に接する当たり前の情報を極解して過剰反応を起こし易い生き物であることや、農薬の安全性について過度に心配する必要のないことを概説した。農薬の安全性評価の実態を理解し、リスクに関する正しい知識を持った上でDHMOの呪縛から解き放たれ、日々の食卓を彩る様々な食品をさらに美味しく召し上がっていただくことを祈念する。
リスクとは
青山 博昭
1954年7月16日生
名古屋大学農学部畜産学科卒業(家畜育種学専攻)、博士(農学、名古屋大学大学院)
(財)残留農薬研究所毒性部長として、哺乳動物の内分泌機能、生殖および発生に関する基礎的研究と、これらに及ぼす化学物質の影響評価に従事している。
【所属学会】
日本先天異常学会(理事)
日本トキシコロジー学会(評議員)
日本農薬学会(評議員)
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