函館は、冬になれば凍てつく港町である。ナナカマドの赤い実(写真1)も、いつの間にか、消えてしまう。名も知らぬ渡り鳥が食べてしまうのである。夏になれば、写真2のように鵜が渡ってくる。一匹だけでさみしそうな鵜もいる。海に向かって、何を願っているのであろうか。
平成21年の食中毒の報告集計(厚生労働省ホームページ、平成21年12月5日現在)では、事件数は例年よりも少なく、死者数はゼロである。我が国は安全な食品が供給され、消費されている国である。生食食文化を持つ国として大いに誇るべきであろう。一方、食品の不安情報に影響され易い国でもある。分業化により、フードチェーンへの理解と親しみが薄れてしまったことが原因ではないだろうか。人間は写真2の鵜と同様に食物連鎖の高次消費者(従属栄養生物)であることや、祖先からの食料調達の歴史を忘れがちなことも冷静なリスク判断を困難にしている要因であると思われる。生物由来の原材料を食品として、安全にかつ安定的に調達していくためには、金銭で全てを決済するだけではなく、フードチェーンの全関係者が不公平感を味あうことがないように思い遣る必要もある。
写真3は、函館郊外で育種された男爵イモの花である。明治初頭、造船技師の卵として英国に渡った川田青年は、造船技術とともに愛を持ち帰った。悲恋に終わった彼女とともに食べた英国のポテトを日本国に普及させるべく、品種改良に取り組んだのである。生まれたのが川田男爵の男爵イモであり、ビタミン愛が感じられる。
大航海時代にアンデスから欧州に持ち帰られたジャガイモは、食物ではなく観賞用の花であった。やがて、地下茎が可食部とされた歴史を持つ。我々の食材は生物に由来し、ジャガイモのように成分として人間に不都合なアルカロイドなどを持つ食用植物もある。食品となっても腐敗や変敗と呼ばれる変化を起こし、あるいは食中毒菌等の汚染を受ければ食用不適となる。
商品としての食品の長所が、マスメディアから繰り返し情報提供されているが、短所に関する正確な情報提供は少ない。食品は食べ方次第で、健康に悪い影響も及ぼすことを伝える情報は、さらに少ない。食品としての信頼を得るには、祖先からの食経験を科学的に整理し、応用することが必要である。「何でも食べ過ぎれば身体に悪い」と言われるように、長所ばかりの食品は存在せず、「リスク、ゼロ」の食品はありえない。食中毒菌も毒魚も毒草も、みな一所(生)懸命に生きているのである。毒は人間の都合で付けられる言葉であり、彼らから見れば人間は非常に危険な毒をもつ生物であろう。また、人間に毒になるか、ならないかは、摂取量による事も我々は理解すべきである。 |