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タイ北部の食の安全と省農薬農業
三重大学大学院生物資源学研究科 伊藤進一郎
はじめに
タイ北部の地方では、焼き畑農業を行ってきた民族を定住させるために農業に従事させたことから、農業人口の割合が極めて高い。またこの地域は、バンコクに比べて平 均気温が1〜4度低いため、タイの中でも多くの種類の野菜や果樹の主要産地となっており、我国もこの地域の農産物に大きく依存している。
農業国の色彩が強いタイ国では、ここ十数年は近代化が目覚ましいが、食糧生産量も 増加している。しかしそれは、集中的な肥料や農薬の投入によって支えられている。 タイ北部における残留農薬は、徐々に流域の土壌・水質汚染等を進行させ、生態系への影響も危惧されている。最近、中国への輸出用に生産されたロンガンが残留農薬量過多で輸出許可が得られず、また残留農薬のためにEUへの野菜や果実の輸出が封じられた。
タイ政府は、本問題の重要性を認識し、2001〜2006年の第9次国家経済社会開発計画において、国民の健康を守るために農薬政策の見直しを進め、農産物の国際競争力を高め安全な輸出農産物を生産すること等を、農業政策の柱として位置づけ、農業協同組合省に農産物食品基準局を設立した。また、大学や各種研究機関に対して、省農薬栽培の手法や残留農薬削減のための方策の検討を指示する等、農薬問題を農業分野の重要課題の一つとして捉えている。しかし、タイ国内にある技術やその普及のためのシステムが十分とは言えず、問題解決の進展は芳しくなかった。

タイ政府の統計によると、毎年人口比10万人に5〜6人が農薬による健康被害を蒙っており、果樹栽培では農薬散布が最も効果的と考える農民が70〜90%いるにも関わらず、農薬使用を減らしたいと考える農民が約75%を占めていた。さらに、農薬のラベルを理解できないと答えた農民が約50%であった。タイ政府は、農薬使用の頻度が特に高く、農薬中毒の問題が発生しているタイ北部に位置するチェンマイ大学農学部に、農薬等に関する情報及び適正な農薬使用ガイドラインを提供し、省農薬技術を促進することを目的とした農薬残留分析・病虫害診断センターを設立することにし、同センターに対する技術協力を我国に要請した。この要請に応じて、国際協力機構(JICA) は、2003年11月から3年間の技術協力プロジェクト「北部タイ省農薬適性技術計画」を開始した。
プロジェクトには、三重大学と香川大学から短期の専門家が派遣され、チェンマイ大学教員で結成された、病虫害診断チーム(病虫害の診断と適切な薬剤散布および畑の 衛生管理)、農薬分析チーム(農作物および土壌中の残留農薬の分析)、IT・技術移転チーム(低農薬技術普及のウェブページ作成とワークショップ等の実施)、また作物別にカンキツチーム、バラチーム、キャベツ類チームと一緒に活動した。

病虫害診断

病虫害診断チームは、モデル農家で週に1回カンキツ、バラ、キャベツに発生する病 害虫の調査を行い、季節別に被害の発生状況を把握し、それを防除するための農薬使用状況の調査を行った。その結果、38の病虫害(カンキツでは6病害と10害虫、バラでは8病害と5害虫、キャベツ類では4病害と5害虫)の発生が確認された。病虫害調査は年間を通して実施され、季節的な被害の発生消長、発生と環境条件との関係などが調べられ、薬剤防除の対象となる病虫害と、特に薬剤防除を必要としない病虫害とに整理された。また病虫害の診断技術向上のため、病虫害の特徴、害虫や病原菌の種類などを画像として整理した。
各病虫害に対して、モデル農家が実施している防除方法とプロジェクトで検討した方法を比較検討した結果、薬剤散布量を半分程度まで低減させることが可能であること、化学肥料の投入も従来よりも少量で同程度の品質の作物を生産可能であることが明らかにされた。これらの省農薬技術を組み合わせることにより、殺菌剤、殺虫剤、肥料の経費は、最大49%まで減らすことできることが提示された。

農薬分析

プロジェクト実施以前は、農家が使用している農薬の種類や量も不明確で、またチェ ンマイで残留農薬分析を行う機関がなく、農薬の規制があっても分析データが無いため、散布量の適正使用についての指導ができなかった。そこで、モデル農家での農薬使用実態の調査に基づいて、各作物の使用農薬リストを作成し、有機リン系およびカーバメート系農薬について、タイ農業協同組合省が行っている分析法を基に日本の技術を取り入れて新たな分析技術として確立することができた。その結果、作物中の残留農薬の分析が可能となり、また土壌中の残留農薬と化学肥料の分析も可能となった。
残留農薬の検出では、タイで作成された簡易キットを改良し、有機リン系農薬やカーバメート系農薬を分析できる簡易テストキットを作成し、販売した。また、土壌中の肥料成分分析用のテストキットも開発され、簡易に農家が土壌中の肥料成分を分析できるようになった。

技術移転

得られた省農薬技術は、セミナーや研修会、各種イベント、新聞や雑誌、ラジオやテレビで公開、普及された。また、農薬・化学肥料の適正使用に関する情報、各種の病虫害の診断と防除に関する情報は、チェンマイ大学に設置されたデータベース・サーバー上に蓄積され、誰もが栽培技術情報を常時閲覧できるようになった。タイでも近年、インターネット回線が整備されつつあり、ITは農業情報の普及でも重要なツールとなっている。さらに、農業協同組合省とチェンマイ大学は、農民野外学校(FFS= Farmer Field School)を開講し、農業者が最新技術を実践的に学ぶ機会を提供し、最新の省農薬技術の普及を農家に「やさしい」方法で進めている。

おわりに

タイ政府は、「世界の台所」としてタイの農産物や食料品の海外輸出を促進する政策を打ち出しており、近年の日タイ経済連携協定交渉においても、食品安全協力は両国間の大きな課題として扱われている。一方で、保健省による食品安全プロジェクトでの残留農薬調査の結果、北部タイで多くの子供が農薬中毒の影響を受けていることが血液検査で示されたことから、タイ北部における残留農薬問題の解決は今後も大きな課題となっている。本プロジェクトの詳細は、http://atract.agri.cmu.ac.th/で現在も公開されている。

筆者略歴
伊藤 進一郎(いとう しんいちろう)
三重大学大学院生物資源学研究科
 
1974年11月 東京大学農学部助手
1986年10月 農林省林業試験場保護部主任研究官
1988年11月 森林総合研究所関西支所樹病研究室長
1995年4月 同東北支所樹病研究室長
1998年10月 三重大学生物資源学部助教授
2004年4月 三重大学生物資源学部教授
2006年4月 三重大学大学院生物資源学研究科教授
現在に至る
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